こんにちは。たかむーとX-T4です。
先日(11月上旬)に長期休暇をいただき、新潟にひとり旅に行ってきました。新潟は、歴史、グルメ、酒、景色、優しい方々など魅力が満載です。
以前は、景色とグルメの魅力をお伝えさせていただいたので、今回はに新潟県の歴史(河合継之助を通して)をご紹介させていただきます。
旅の相棒は、X-T4×単焦点レンズXF35㎜F1.4です。描写力と携帯性が優れているので、旅のお供に最適です。河合継之助のことを追いながら写真に思い出も残せます📸
良かったら【X-T4×Xf35mmF1.4に写る新潟県の歴史】をご覧ください。
※文章多めです💦💦
はじめに
なぜ、新潟ひとり旅をしたかというと、司馬遼太郎の名作【峠】の主役の『河合継之助』に興味を持ったからです。
河合継之助は、長岡藩の家老までのぼりつめ、日本を分ける戦争鳥羽伏見の戦いに端を発した北越戊辰戦争では『長岡藩の中立』の立場を主張したり、藩政改革などを行い、ものすごい赤字だった藩の財政を多額の過剰金を持てるようにもしました。
潤った資金で、当時日本で3門しかなかったガトリング砲を2問を手中におさめることに成功致しました。ガトリング砲は1分間に200発もの弾丸を発射できる当時最強の兵器でありました。
戦争中、自身の左ひざに銃弾を受け負傷し、この傷がもとで「八十里こし抜け武士の越す峠」という名言を残し死を迎えました。享年42歳
他にも「常在戦場」、「民は国の本、吏は民の雇い」などの名言を残しています。
「常在戦場」は、林修の「今でしょ!」のもとになっています。この意味は後ほど触れていきます。
自分が河合継之助に興味を持ったのは、主に藩政改革です。改革を行う際に当時の常識の枠に捕らわれず、己の信念のもと、藩に住む人々のために尽力した姿に魅かれました。どのように尽力したのか、写真を見ながら紹介させていただきます。また、【保育と通ずる】と、自分なりに思った部分を勝手ながら書かせていただきます。(河合継之助の魅力はたくさんありますが、今回は藩政改革を中心に紹介させていただきます)
河合継之助記念館
河合継之助は、上級武士の長男として生まれました。幼少の頃は、気性が激しくわんぱくで負けず嫌いでした。また、「こいつから学んでも意味がないな」「今、なんでこれを学ぶ必要があるのか?」などと疑問に思ったら学ばない生意気者でもありました。そんな気性が激しくて生意気な河合継之助ですが「この人だ!!!」と決めた人物からはとことん自発的に学びます。
河合継之助が「この人だ!!!」と熱心に学んだ人物は、松山藩の藩政改革を成し遂げた『山田方谷』です。この人物から学ぶために長岡藩(新潟県)⇒松山藩(岡山県)まで長い距離を旅(徒歩)をします。長い旅路のすえにやっと山田方谷と出会えましたが、はじめは、なんと断られてしまいます。が、河合継之助の負けず嫌いと生意気の性格が発動し、根負けした山田方谷から学ばせていただくことになりました。
学問は自ら学ぶもの!!【主体性】
河合継之助は、勉強熱心で本をたくさん読んで自発的に学ぶ姿が多くありました。そして、他人から教えられるのを嫌いしました。
【学問などはゆらい、人から教えられるものでない。自分の好きな部分を自分でやるものだ】という考えを持っていたからです。この考えは、現代の保育で言う【主体性】と通ずるとも感じました。
この考えがあったからこそ、自分が納得しない人からは無理して学ばず、「この人だ!!!」と決めた山田方谷から熱心に学ぶ姿に繋がったのだと思います。納得しない人から無理して学ばされることと、納得いく人から学ぶのでは全然違いますよね。同じ教えを乞うでも納得する人から学ぶことは、気持ち的に【自らの学び】になり、学ぶレベルが天と地ほどの差があり、これは、【自分の好きな部分を自分でやるものだ】ということになると思います。
河合継之助は、納得いく納得いかないを何も考えずにただ好き嫌いだけで決めているわけではありません。たくさんの本を読んで知識を蓄え、その知識をもとに自分でも行動し経験値にしています。(知行合一)当事者意識(自ら経験値を積み上げていく姿勢)を持って取り組むことが大切ということですね!!!
理解というのは、【知識と行動が伴っていないと理解したことにならない(知行合一)】という考えも持っていました。能書きを垂れてるばっかの人はただの知ったかぶりで何も知らない理解していないのと一緒ということですね笑(自分、気を付けます💦💦)
知識(インプット)と行動(アウトプット)を繰り返し経験していく中で、自分で本質を考える力、判断する力、自分の行動がどのように影響し責任を負うかという【主体性】を自ら育んでいきました。
継之助の願い ~人々が安心して暮らせる新時代を夢見て~
物事を判断する基準になったのが山田方谷から学んだ【民は国の本、吏は民の雇い】という考えです。
この言葉は、国家の基本はひとりひとりであり、役人や国会、議員はどんなに偉そうにふんぞり返っても、所詮は国民に雇われているだけの存在という意味です。シンプルに言うと、【国は人だ!!!】国においても組織においても、そこに暮らす人々や働く人々が健康で安心した生活をおくれていないと国や組織は成り立ちませんよ。という意味だと思います。山田方谷の学びから、ひとりひとりが輝ける藩を目指していきます。
子育てや保育の現場もそうだと思います。子どもと生活する保育士が疲弊しきっていたり、疎かに扱われると、その悪影響は結局、子どもたちに及びます。親や保育士が輝けるからこそ、子どもたちにとって最善の利益に繋がる環境になります。話がそれてすみません。。。。
また、山田方谷から学ぶことで「武士の時代は間もなく終わる!これからは商人の時代だ!」と先見の目をより強めながら、【ひとりひとりが輝き(個性を大切に)、安心して暮らせる新時代】を築こうと尽力(雇われを意識して)していきます。
長岡藩を持続させるために藩政改革をどんどん行い、その中で日本で3門しかなかったガトリング砲を2門も手に入れることに成功しました!!ガトリング砲1門の値段は、(現代の価格1門:7億3080万円)だそうです。2門で14億くらいですか💦💦
どんだけ藩政改革に成功してるんだ💦💦💦物凄い赤字だったのに💦💦💦💦
ガトリング砲を入手した目的
ちなみにガトリング砲を入手したのは積極的に戦争をするつもりではなく、自分の意見の説得力を持たせるためです。(長岡藩は小さい藩であった。小さいながらも戦えるという実力や自立心を示すことで、話し合いなどで同じ立場でいようとした。あくまでそのための手段でガトリング砲などを入手した)
戦争の話し合いに限らず、普段のコミュニケーションの中でも行動しないで口だけの人、感情論しか言わない人、何もしていないのに文句ばっかりいう人、実力が伴ってないのに大きなことばっかり言う人、他力本願過ぎる人、意見に芯がない人などは全く説得力ないですよね💦←あくまで自分の価値観です💦話がそれました。。。。。
人々の生活を守るために【中立】の立場を主張するが・・・
継之助は、いずれ日本が海外に狙われてる、イヤ、すでに侵攻されていることに気づいていました。そのため『今、内戦を起こし疲弊しきったら、必ず海外の人たちから攻められる。疲弊しきった状態じゃ必ず日本は負ける』ということも先見していました。
北越戦争の際に、新政府軍(薩摩藩・長州藩などの西の列藩)が侵攻してきました。その際に以上の理由(各国列強が侵攻している時に内戦してる暇はない!内戦で疲弊したら必ず日本は植民地にされる!!!)から戦争を回避しようと徳川から受けた恩を報いたい旨を伝えながら【中立の立場】を主張(小千谷会談にて)します。が、失敗し、長岡藩は焼け野原にされてしまいました。
焼け野原になった結果、河合継之助を尊重する方もいれば、継之助を恨む方など継之助に対する様々な印象が現代にあると思います。自分は、純粋に河合継之助が残した実績、思いに憧れを持ちました。
継之助の実績!~藩政改革~
- 人材の登用・・・家柄や肩書に関係なく、実力本位で藩士を登用し、適任適所の人材配置
- 賄賂の禁止・・・慣習化していた賄賂、饗応、請託を禁止(もとももと賄賂や接待など無駄だと思っていたり、嫌っていた)。誰もが解決できなかった山中騒動を解決する。
- 寄場の設置・・・犯罪者を罰するだけでなく更生と職業訓練をさせる寄場を設置する。(寄場の最初の場長が、外山しゅうぞう⇒後の阪神タイガース生みの親、阪神電鉄やアサヒビール)
- 賭場の禁止・・・自ら博徒に変装し賭場に入り込み、実態を知りながら禁止にた。
- 遊郭の廃止・・・大の遊郭好きであったが廃止にする。その際に業者に相応の資金を貸与し、娼婦には旅費を与えて家に帰した。また、娼婦がちゃんと家に帰ったかまで見守った。
- 河税の廃止・・・信濃川はみんなのもの。通行料(河税)をとることで特別の人に金が入るのを廃止。自由に行き来できることで街を活性化させる。
- 株の特権廃止・・・舟乗、魚屋、湯屋、髪結、青物問屋、鬢付油の6業種の株に対する特権を廃止し、自由競争にした
- 町制の改革・・・不正の噂がある検断職の免職。町役人の人員削減や給与規定の見直し
- 藩財政の改革・・・家臣一同に倹約を奨励。領民には藩財政の公開と、藩主藩民が改革に取り組む証として、藩候の調度品の売却を進める。
- 禄高の改正・・・藩士の禄高をほぼ100石に平準化し、兵の統制を容易にした。自らの禄高は120石の増減なしに据え置いた
などなどです。ここに書いていない改革もまだまだあります。
継之助は、そこに暮らす人々のため、ひとりひとりが輝ける時代を築くため以上のような藩政改革を実践してきました。改革の中身を見ると、ちゃんと人々のための判断基準がしっかりあり、また、そこに思いやりも見られます。
例えば、継之助は大の遊郭好きで有名でありますが、藩のために廃止にしています。ただ廃止するだけでなく娼婦にはしっかり家に戻れるように手配したり、業者には相応の資金を与えています。好き嫌いではなくしっかり藩のためにという判断基準があり、自分の決めたことにしっかり責任を全うしようとする姿はめちゃめちゃ尊敬できます。
他にも禄高の快晴では、上層部の禄高を減らし、下層部の人たちにその分を分けています。下層部は禄高が増えることでやる気を出し、生産性がとても良くなるという仕組みだそうです。(禄高は給料のようなもの)賛否両論はありますが、自分は、この仕組みに最も感銘をうけました!!!
また、不正、賭博、賄賂などの汚れたことは嫌っていました。だからこそ、上層部の禄高が減ってしまっても周りはついて行ったんだと思います。
今の政治家さんたちに見習って欲しいです笑←偉そうにすみません💦
継之助の意思を継ぐ者たち
写真の額縁の文字は、【常在戦場】と書かれています。
【常在戦場の意味】常に線上にいるような心持ちでいることを説いた四文字熟語である。戦場は生きるか死ぬかの過酷な場所であり、一瞬たりとも気を緩めてはならない。常に線上にいるかのような緊張感を持って物事を取り組むことの大切さを表現している言葉である。
この言葉の意思は、外山しゅうぞう、山本五十六などの偉人たちも引き継いでいます。この額縁は、山本五十六の宅に飾ってありました。
そして、現代では林家修が『今でしょ!』と現代風にアレンジしてこの言葉の意思を継いでいます。
保育×今でしょ!
いつやるの?→今でしょ!の意味は、保育と通ずるものを感じました。
それは、子どもたちの心境に言葉の立場を置き換えた時に、子ども自身が『今やりたい』という気持ちや欲を満たせる環境を目指していきたいと思いました。
例)トランプ、ハサミなど大人の許可がないと使えない環境があります(実際に自分の法人でもありました)子どもたちは『トランプしたいな』と思ったらすぐには使えずに「先生トランプ使いたいです。イイですか?」と許可を得なければなりません。「これ(許可)って必要ですか?」とそのような環境設定をしている職員に尋ねたところ「・・・・・」特に根拠はなかったようです。もちろん周りの新人の職員は、そういう風にその職員に教えられているので特に根拠なく当たり前のように許可制の環境設定を行っていました。
その許可制があると、職員が忙しいと「後でね」と言われてしまう子どもたちもいました。子どもの心境を察すると『今、やりたいのに・・・』だと思います。結局、待つことで忘れられてしまったり、違うことに興味を持ってしまいます。そこで子どもの『自らやりたい』とする経験からの成長する機会を一つ、イヤ、いくつも奪うことになります。(一つの経験からの広がりも考えると)
継之助の言葉や精神を振り返る
【学問などはゆらい、人から教えられるものでない。自分の好きな部分を自分でやるものだ】
継之助のこの精神があったからこそ【民は国の本、吏は民の雇い】や【常在戦場】の考えのもと、様々な藩政改革を行っていきました。その中で自分で考えて、判断し、責任を全うする主体性の姿があったからこそ、周りの人もついてきたんだと思います。ひとりでは組織は成り立ちませんもんね✨
子どもたちの主体性を育んでいくためには、『やりたい』と思ったタイミングがとても大切だと思っています。その『やりたい』は一瞬かもしれません。その一瞬をできるだけ逃さない手段の一つとして異年齢保育や、コーナー保育があると考えています。『やりたい』気持ちを引き出し、大人も子どももひとりひとりがが輝きながら当事者意識を持って積極的に経験する環境設定が生きる力の主体性に繋がっていくと思っています。
【自らのやりたいから、学ぶ力を伸ばしていこう!!】結果よりも過程を大切にしていきたいです。
まとめ
継之助は、恨まれてもいたので墓が何度も倒された形跡があります。様々な価値観はあると思いますが、自分は継之助の生き方などを学んだ時に【保育と通ずる】と感じたところがあったので、めちゃめちゃ尊敬しています。
あくまで自分の考えでありますが、偉そうに長々と継之助×保育のことを書かせていただきました。許してください💦💦でもたまには良いでしょ(≧◇≦)
文章の構成なども分かりにくいところも所々にあったかもしてませんが、最後までありがとうございました。
今後もよろしくお願い致します。
新潟県!!!!楽しかったー!!!!!!!!!!!!!!!!ありがとうございます!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
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